ライフコーチもとあきの自分史 ''高校〜浪人生時代''
こんにちは。
ライフコーチのもとあきです。
前回は中学校時代、「完璧な自分」を求める中にも熱中することも出来て、自分に自信が持てた時代でした。
さて、今回は高校生から大学に入るまでのお話。
芽になっていた「完璧以外許せない」が爆発し、自分のことが大嫌いになった時代です。
振り返っていきます。
目次
勉強で再び挫折
高校は「洛星高校」という学校に進学した。
もう初っ端から周りの人間の頭の良さに度肝を抜かれた。
中高一貫校で学習の進みが早い。高1で既に高2の勉強をしてたんじゃないかな。
だが、それを差し引いても周りの人間は優秀だった。
なかなか授業についていけない中、同級生達は当たり前のように問題を解いていく。
試験の順位も下から数えたらすぐ見つかる所にいた。
「完璧な自分」がいとも簡単に崩れ去った。
最初の一年も保たずに躓いた僕は、その後長い間、勉強に対して劣等感を感じて生きていくことになる。
「勉強が出来ないと友達として認められない」思い込み
僕の高校は中高一貫校だった。
一言で言ってしまえば「外様」だ。
周りは皆お互いの付き合いが長い。
偏差値がとにかく高い学校なので、僕は勝手に
「勉強が出来ないと、一人の人間として認めてもらえない」と思っていた。
実際はそんなことは全くなく、器の広い友人ばかり。
今でも付き合いのある尊敬する友人が出来たのもこの時代だ。
僕が完全に「自分は認められない」と思い込んでいた。
「テスト?結構出来たよ」が口癖に
![](https://motoaki.blog/wp-content/uploads/2021/07/IMG20210729161542-edited.jpg)
もちろん、そんな自分は許せないので勉強はしていた。
だが、なかなか結果が出ない。
周りは上手くいっているように見えた。
劣等感が強まっていくのが自分でも分かった。
「完璧じゃない自分が許せない」
そう思った自分が、とる行動は
自分を偽ること
だった。
友達に試験の出来を聞かれると試験の用紙自体は見せずに、「とりあえず出来た」とだけ伝える。
そうやって誤魔化していた。今振り返ってみると誤魔化せていないと思うが。
ただ、「完璧な自分」を守ることに必死だったのだと思う。
勉強から逃げるようにバレーに打ち込む
高校でもバレーボールは続けていた。
当然バレーボールは好きで「上手くなりたい」という思いはあった。
個人的に朝練をしたり、社会人のクラブチームの練習も行き、本を買って筋トレに励んでいた。
だが、その動機には
- 「勉強出来ない」という言い訳を正当化するため
- バレーも出来なくなると存在価値が無くなるから
- 勉強を忘れたかったから
だった。
「完璧な自分」を守るために「バレーが好き」という想いすら、濁ったものにしてしまったのだ。
医学部医学科を第一志望に据える
さて、進路を決めなければいけない時期になる。
僕は無謀にも医学部医学科に挑戦することを決めた。
小さい頃から人の命を救う医者の仕事に憧れていた。
しかし、僕の中には仕事への憧れと同時に
- 難関を目指すことで認めてもらいたい
- 「いま、出来なくても仕方無い」と言いたい、言って欲しい
- 自分を追い込むための起爆剤
と思っていた。
僕にとっては「難関を目指すこと」すら「完璧な自分」の一部だったのだ。
今、思うと自分を守るために志望校を決めるって悲しい。
それを僕自身も心の奥底で分かっていたような気がする。
いつまで経っても自分が許せずますます自分を嫌いになっていくのだった
友達には恵まれていた
![](https://motoaki.blog/wp-content/uploads/2021/07/IMG20210729161452-edited.jpg)
ただ、そんな高校友人は皆、良い人間だった。
音楽、ゲーム、スポーツを通じた仲間や、単純に息が合った友人。
体育祭の応援団長もやらせてもらった(やらされた部分もあると思うが(笑))。
友達は皆、頭が良くて器も大きく、僕が勉強出来ないことも分かっていたにも関わらず、それでも仲良くしてくれていた。
僕だけが僕を受け容れていなかった。
そんないい友人がいたにも関わらず、彼らと自分を比較して、僕は僕のことをますます嫌いになっていく。
大学入試は不合格。「自分なんて死んじゃえばいいのに」
入試は当たり前のように落ちた。
センター試験の段階で「落ちるだろうな」と思っていた。
何も気力が無かった。
親は悲しむし、友人たちは名のある所に受かっていく。
浪人を決めて「社会的地位がない自分」を追い込みながら勉強。
劣等感の中でも力はついたのか、センター試験では9割を超えた。
それでも落ちた。数字で証明されたにも関わらず。
それが逆に自己否定を強めた。
自分なりに頑張ったのになぁ。
絶対と信じてた数字もそれなりのものが出たのに「不合格」。
「そっか、ということは『僕』という存在がダメなんだな」
理解した。冷静に。なるほど。その通りだ。
生きてても不幸しか産まない。
衣食住、勉強代の面倒を見てくれた親を悲しませる。
応援してくれた人たちもガッカリさせる。
バレーでも勉強でも何をしたって人を喜ばせる事ができない。
大好きな祖父とは真逆の存在。
周りを笑顔にさせていた祖父は既にこの世にはいない。
周りを泣顔にさせていた僕は今もこの世に生きている。
「自分なんて死んじゃえばいいのに」
気づいたら呟いていた。京阪電車の降り際だ。
涙が止まらんかった。
何に泣いていたのかは分からない。
大阪府立大学工学部に進学を決める
さて、2度目の受験失敗を経て、中期日程で僕を拾ってくれた大阪府立大学工学部に進路を決めた。
正直に言って勉強なんてもう嫌だったのだ。
二度とやりたくなかった。
一刻も早く逃げ出したかったのだ。
今思えば、こんな自分にでも居場所を与えてくれた大学には感謝しかない。
生きてるのか死んでいるのか分からない状態で、大学へ行くことにした。