ライフコーチもとあきの自分史 中学校時代

こんにちは。

ライフコーチのもとあきです!

「ライフコーチもとあきの自分史」、今回は中学校時代です。

小学校時代では「完璧以外許せない」芽が出てきた時代でした。

中学受験に失敗し、自己嫌悪MAXの中で地元の公立中学に進学しました。

中学校時代は一言でいうと

「上達を目指して取組む熱さ」

に魅了された時代でした。

部活動も親の目を気にした選択

さて、中学校で部活動に入ることになり、バレーボール部を選択した。

理由は簡単「親もやっていて楽しそうだったから」。

小学校時代に「親に認められること」が行動の基準になっていたため、「親が過去やっていたスポーツなら認めて応援して貰えるだろう」と考えていたのだ。

ただ、もう一つ。何かの大会で観たソフトバレーが楽しそうだったから、というのもある。

今思えば、やる気が有るのか無いのか分からない(笑)

ただ、当時それなりにやる気はあったようで、保育園ぶりに再会を果たした友人?知り合い?を誘って人数を集めた。

そんな熱量で入ったバレーボール部で今後の人生を変える大きな出会いを果たすことになる

人生に影響を与えた恩師との出会い

部活の顧問の先生が素晴らしい人だった。

頭が良く、厳しくも優しい人。

厳しいと言っても、怒鳴るような厳しさではなく、「ダメな所は『ダメ』と冷静に指摘する」厳しさだった。

本当のことをきっちり伝えてくれたのだ。本当の意味で優しかった。

自分たちのチームは2年生がいなかったため、1年生だらけのスタート。

弱いのは当然だと思っていた。だが、恩師は

「コート上では年齢は関係無い。一回戦負けがお前らのスタートや」と。

練習がめっちゃ多かった。しかも厳しい。

土日はずっと体育館にいた記憶がある。よく、こう言われた。

「下手な人間は『どうやったら上手くなるか?勝てるか?』を考えないと上手い人間には勝てない」

「全力で集中して練習しろ。今、何の練習をしてるか考えろ」

今になってもドキッとする言葉だ。

ただ、僕がその先生を尊敬している理由は別にある。

先生も先生で「全力で考えて集中して練習する」を自ら体現していたのだ。

元々その先生はバレー未経験、にもかかわらず自ら生徒の相手になれるよう練習して、地元では「名将」と呼ばれるまでになっていた。

先生に休みなんて無かった。

僕らが上達出来るように体育館をとって、「月刊バレーボール」から練習メニューを作成したり、練習試合も組んでくれていた。

当時、練習が多すぎて「え〜」などという嫌な反応をしていた(笑)

が、不思議と先生を嫌いにならなかった。

自分たちのためにやってくれている。しかも自身が自身の教えを遵守している様が格好良かったのだ。

信念を持っている人の凄さを感じた瞬間だった。

「自ら動け」「楽しくやろう」を教えてくれたコーチ陣

顧問の先生は昔から人気で、先生を慕う人間がとても多かった。

ある日、先生がちょっと怖いお兄さん達(笑)を連れてきた。

先生の教え子達であり、僕たちのコーチとなる人達であった。

僕らの練習が終わった後、体育館を使わせてもらえるという条件で、僕らのコーチを承諾してくれたのである。

また、その人達が厳しい、という上手すぎてビックリ。

中学生だからって遠慮なし。

キャッチボールやアップの段階から力の差を見せつけられた感じだった。

だが、僕はコーチのバレーの上手さがとても印象的だった。

「あんな風にプレーが出来たら、面白いだろうなぁ」と思った。

と同時にコーチ達の人間性もとても好きだった。

コーチ達は生徒を「対等なバレーボール選手」として扱ってくれていたのだ。

その上で「声出して楽しんでバレーやろうぜ」と言ってくれていた。

「完璧じゃない自分はダメ」と思っていた僕には、それがとても嬉しかった。一人の人間として認められたような気がして。

コーチ達は顧問ではない。僕らに肩入れする理由はないから、自分から聞かなければ何も教えてくれない。

ただ、関わりにいけば必ず何かを教えてくれた。

動けば何かが得られる。動かなければ何にも得られない。

当たり前のことだが、大事なことだ。僕はコーチからこれを教わった。

一日中の部活動後に、コーチ達のクラブチームの練習に混ぜてもらった。

レベルの高い人達の中で練習して少し誇らしい自分と、憧れしかないものに囲まれて「上を目指している時間」がとてつもなく好きだった。

  • せっかくやるなら楽しむ
  • 自ら動けば何かが得られる

こんな大事なことを中学校の段階で学ぶ事ができたのだ。

初めて自分と向き合った骨折 「いま、何が出来る?」

僕は中学一年時セッターをしていた。

セッターとはスパイクを打つ前にボールに触る、「トス」を専門にするポジションだ。

必ず2回目に触るため、セッターが上手くないとチーム自体が安定しない。

そんなポジションを任せられた。誇りではあったが、「スパイク打ちたいなぁ」という思いも少しあった。

「打ちたい思い」と「皆を操っている誇り」に揺れ動く微妙な思いを抱きながら、セッターというポジションをやっていた。

ただなかなか上達しなかった。しかもチームが勝てない。

チームが勝てないのは、僕が上手く無いからだ。

ただ、それを分かっていなかった当時の僕は「僕はやることをやってる。得点が決まらないのは攻撃陣が下手だからだ」と他責にしていた。

「スパイクを打ちたい」という思いを消化しきれていなかったのもあった。

完全に不貞腐れていた。

そんな態度が引き金になったのか、僕は通学途中に交通事故に遭って、右手を骨折してしまった。

当然、ポジションが無くなり自分の居場所も無くなっていくような感じがした。

「自分に価値がない」

そう思った僕がとった行動は「不幸のヒロイン」だった。

「怪我で練習出来ない俺可哀想でしょ」と、「怪我があるから完璧な自分になれない」という舞台を演じていたのだ。

それが顔に出ていたのか、先述したコーチの一人が僕にこんな事を言った。

コ)田中、パスやろか。今日終わったあとの練習も来るやろ?
僕)いや、今日はちょっと。腕折れてるんで。

すると、

コ)「骨折してても左腕があるやろ。声だって出るやろ。お前『今出来ること』やってへんやんけ」

ズバッと言われた。

「バレーボールで何がしたいのか?」を考えたことが無かった。衝撃だった。

腕が折れてても、脚や指は鍛えられる。左利きになるための練習をしたっていい。

「何がしたくて、それをクリアするには、今僕には何が出来るか?」

コーチの一言で、初めて自分を真剣に考えた。

好きになっていったバレーボール

骨折してから、今までとは次元の違う集中力で練習したと思う。

ポジションが変わって、自分の強さを活かせるように練習を積んだ。

コーチの「ずっとボール触っとけ」という教えに従って、テレビを見てる時はボールをこねこね、授業中は腹に抱えてボールの感覚を常に身体に与えた。

動機は結局「自分が得意なことを伸ばして、努力してチームに貢献出来る方がかっこいい」。

「完璧を求めている」ことには変わらなかったが。

それでも「バレーで上手くなりたい」と思っていたのも嘘じゃない。

だからバレーにはちゃんと打ち込んだ。

いつの間にかバレーボールが好きになっていた。

自分の思い通りにボールが動いていく感覚に魅了されていた。

四六時中「どうやったら上手くなるか?」ばかり考えていた気がする。

DVD見て、イメージしながら筋トレして、、、そんな自分が少し好きになった。

凄いやつから学んだ、基準の高さ

さて、有難いことに努力も報われていき、各校の練習の集まりにも呼んでもらえるようになった。

最初は「選ばれた自分」に誇りを持っていたのだが、あっさり打ち砕かれた。

皆上手い。

小学校からバレーやってて魔術師の如く操る人間もいれば、身体能力で相手を粉砕するスパイカーもいる。

上手なことは対戦していたから分かる。

特に驚いたのは「バレーに対する意識の高さ」だ。

とにかく求めている基準が高い。

僕が自分でOKを出してても

「もっちゃん、もうちょいパス直線的にちょーだい」

と言われる。

でも不思議と、「自分への否定」とは捉えなかった。

尊敬があったからかな。

彼らと練習する時は、僕の「完璧を求める心のクセ」は良い方向に働いた。

  • 凄い人たちは見てる景色が違う
  • 景色が違う人たちと練習すると自分の基準とレベルが上がる

そんなコトを同級生達から教わった。

最後の地方大会での優勝

人生でトップ5に入る位嬉しい出来事かもしれない。

中3の最後の大会、1勝も出来なかったチームにようやくフルセットで勝った。

優勝を飾った。

ウチの中学では初めてのこと。

チャンピオンシップポイントを決めたのは僕だった。

キレイでは無かったが、「小さい飛べない自分に何が出来るか?」を考えて特訓した泥臭いスパイクだった。
(「ブロックアウト」で分かるあなたはバレー通(笑))

  • 好きなことに打ち込む、困難を乗り越えていく楽しさ
  • 「これやったらどう上手くなるのかな?」というワクワク
  • 出来なかったことが出来ていく気持ちよさ

これらに打ち込んでいるうちに、気づいたら手にしていた優勝だった。

今思い返すと、僕の目指す「成長に結果がついてくる」ということだったのかもしれない。

変わらない「完璧のための」勉強

教育方針は「試験は90点以上」に少し緩和されたが、リアクションは相変わらずだった。

自分も変わらず試験に対してビクビクしていた。

「完璧な自分になり、認めてもらうために」勉強しているような感覚。

勉強が楽しくなかった。

高校受験が迫ってきていた。

どこに行きたい訳でもない。そこまで勉強に意欲がある訳でもない。

だが、そんな勉強に対する意識が一変する出来事が起きる。

それは、教室でもなくオープンスクールでもなく、バレーボールのコート上のことだった。

バレーも強く、勉強も全国でもトップクラスの中高一貫校

あるバレーのお祭り的な大会で、「オールエイジ」という大会があった。

大学生以上、高校生、中学生、各世代から2人を選んでコートに立たせる。そんな全年齢が交流するための大会。

ベンチではあるものの僕は選んでもらえた。結果的に負けてしまうのだが。

その負けた相手が凄かった。

ある中高一貫校を主体にしたチームだった。大学生はOB。

中高生は現役。

なんとOBは京都大学のユニフォームを着た選手だった。

しかもめちゃくちゃ上手い!

文武両道を極めた世界

スポーツも勉強もできれば、認められる。

「完璧になって認められたい自分」と、尊敬の念。

勉強で初めて強く感じたのだった。

不純ではあるが、「ここを受けよう」そう決めた。

今思うと、いつでも僕が進む先は「僕が熱中しているもの」が、ついでに持ってきくれたような気がする。

初めて自分で勉強した高校受験

さて、その中高一貫校を受ける旨を両親に告げた。

両親は快諾してくれた。それで逆に自信がついた。

今思うと、「両親に認められる道」にしか自信が無いのは寂しい。

早速受験先を決めた僕は、自分の勉強の環境について考えた。

中学受験で進学塾に対するトラウマがあった僕は

「自分が足りない所を自分で組み立てられるようにしたい」

と思った。

かと言って集中力もない僕は、

24時間年中無休で空いていて、好きに勉強して良い。相談も自由。

という塾に通うことに決めた。

そこの塾長がとても気さくで「好きに勉強しろ。任せる」と言ってくれた。

今思えば、完璧でもない自分に「任せる」と言ってくれる人が多くて、有難かった。

それが嬉しくて、自分も頑張れるのかもしれない。

僕は昔から人の運に恵まれていると思う。

定員2名の高校受験合格

バレーボールで癖になったせいか、自分に自信があったのか、高校受験では自分で考え組み立てて勉強した。

何が足りてないか?どんな問題が僕は強いのか?どんな勉強をすればいいか?

それらに一生懸命になっていたんだと思う。

その勉強をしている瞬間も楽しかった。

結果的に、合格した。

中学では自分以外に誰も行かない高校に行く。

そんな優越感と勉強を褒められる自分、でもなんだかんだ勉強を頑張った自分の誇りも入り交じる感覚だった。

僕を受け容れてくれた祖父の他界

中学2年の夏、祖父が他界した。

元々調子が悪かったと聞かされており、記憶でも酸素ボンベを携帯している祖父が殆どだった。

でも祖父は「痛い」とか弱音を吐かなかった。

最後まで、笑顔で接してくれて、僕の話すことを「そうかそうか」と聞いてくれた。

そんな祖父がいなくなった。

泣き腫らしていた。ただただ悲しかった。

これからどうしたらいいか不安だった。

初めて人間の「死」を意識した。

火葬で骨になった祖父を見て、同じ人だと思えなかった。

「これが死なのか。」漠然と思った。

「生きるってなに?死ってなに?」を心の中で考えた。

あれだけ頑丈な身体で笑顔の祖父が動かなくなる。

「嫌だ。ちゃんと生きたい」と怖くなっていた記憶がある。

「このまま死にたくない」と思ったのだ。

「生きる」「死ぬ」

子どもながらに深く感じた出来事だった。

まとめ

さて、中学時代を振り返ってみました。

中学時代は「完璧な自分」を演じつつも、それを達成する中で「好き」や「熱中するもの」に出会えた時期でした。

振り返っていくと、僕はこの辺りから人の縁に恵まれ出した感じがします。

中学時代からずっと、僕は凄い人たちの傍にいながら生きることが出来てたんだな、と思いました。

あなたはどんな人に囲まれて生きてきましたか?

振り返ってみると、様々な人やモノに恵まれているかも知れません。

長文にも関わらず、読んで頂いて有難うございました!

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