ライフコーチもとあきの自分史 小学校時代
ライフコーチもとあきの自分史をまとめました。
誕生からライフコーチになるまで。
今回は「小学校時代」。
「完璧以外許せない」芽の誕生である。
目次
仕事が多忙で不機嫌な両親
僕の家は共働きだった。
父は銀行員、母は理学療法士で家族を食べさせていくために、仕事を頑張ってくれていた。
母は子育てと仕事、父は朝早くから夜遅くまで仕事だった。
そのストレスもあったためか、家で不機嫌だった記憶が多い。
モノに当たったり、いきなり怒りが爆発したり…
父が一日中家にいる土日が憂鬱だった。
気づけば僕は、「何か親を怒らせるようにしてないか?」「笑ってもらえるように頑張らないと」を考えながら人目を気にして行動する子供になっていた。
「人の目や表情を過度に気にする」
少しずつそんな芽が出て来た頃だった。
「テストは100点、成績はオール5」の教育方針
これが教育方針になっていた。低学年の時は◎、高学年では5がないと「あとコレが足りないね」と言われたものだった。
おかげで、95点をとったりしても、「足りない5点」にばかり焦点があっていた。
親にテストや成績表を見せる時はとても緊張した。もう変わるものではないのに。
当時の僕にとっては成績の中身よりも親の機嫌や評価の方が大事だったのだ。
「自分が100点をとれなかったことで、親が怒るかもしれない」
そんなことを考えて、「足りない部分」ばかりに目が向いていた。
「完璧」だったら認められるんだ
とはいうものの、動機がどうであれ勉強はしていた。
宿題も必ず終わらせていたし、「問題を問いていく」のが楽しかったのもある。
おかげで小学校のテストは殆ど100点をとるようになっていた。
100点をとっていたら親は当然指摘しない。なんなら褒めてくれる訳で。
周りの友だちも「もっちゃん、凄いな」と言ってくれた。
100点をとった時より、褒められたときの方が嬉しかった。
100点をとれれば、家族は不機嫌でもなく周りから認めてもらえる。僕もちやほやされて幸せだ。
また、昔から運動自体は好きで人の真似をするのが上手だったこともあり、球技も割と得意だった。
小学校の球技といえば、ドッジボール、キックベース。
いつも最後の方に残って、上手なプレイヤーとして認知されていた。
ピアノや水泳も習い事として、やらせてもらっていた。
「もっちゃんは運動も勉強も音楽も出来てすごいね」
そう言われた時、「なんでも出来る=完璧」な自分に価値を感じた。
「なんや、完璧なら楽に生きていけるんや」
だったら「完璧な自分」を作っていけばいい。
そう思った。
体型コンプレックスといじめ
小学校時代、今とは比べ物にならないほど太っていた。
小学校では「デブいじり」といういじめに近いいじりをされたことがある。
恐らく、僕の「完璧な僕すごい」という態度が招いたこと。
でも、当時はそんなこと気付かなかった。
「僕がすごいから嫉妬してるんだ」と捉え、ますます「俺凄い」を証明するために、自慢に走るようになった。
そして、益々いじりが激しくなっていき、自分のコンプレックスも強くなっていった。
完全に決定打になったのは、母の一言だった。
「太っているのは自己管理がなっていない証拠だって、海外では言われるんだよ」
その時、僕に
「太っている=格好悪い=完璧じゃない」
という方程式が成り立った。
「体型を何とかしないと」と異常に体型を気にしだした。
それはずーっとその後も続き、二重あごを隠すべく変な姿勢になったり、鏡をめっちゃ気にする大学生になったり…
変なキャッチコピーの薬に手を出したこともあったなぁ(笑)
「今の自分じゃ完璧に届かないからダメだ」という思い込みが生まれ始めた。
友人のS君
小学校から、仲良くしているS君という友人がいた。
背が高くて、スポーツも出来る爽やか系の男の子だった。
雰囲気はKinKi Kidsの堂本光一に似ていて、格好良かったなぁ。
そして、彼は頭もよかったのだ。
英語を小学校の頃から習っていて、中学の時は「こら敵わんな」と思った記憶がある。
さて、僕は勝手に彼と競っていた。
母から「S君の成績はどうだったの?」と聞かれたことがあったからだ。
「他人と比べて負けている=完璧ではない」という方程式が出来ていて、何とか彼に勝とうとしていた記憶がある。
一方で彼は人間が大きく、そんな僕とも仲良くしてくれていた。
お互い名前で呼び合うのは彼だけかもしれない。
最も付き合いの長い友人であり、僕が最もコンプレックスを抱いた一人でもある。
結局、学問では敵いませんでした(笑)
今はコロナ禍もあり、なかなか会えていないが、関西に帰ったときは今でも連絡をとっている。
だが、小学校当時僕は「友人との比較」で、ますます自己嫌悪に陥っていったのだ。
今でも仲良くしてくれる素晴らしい友人の存在に気付かず、僕は「自分の価値を示す材料」だと思っていたのである。
暗黒の中学受験挑戦期
僕の最も辛かった時期と言っても過言ではない。
当時、中途半端に勉強の出来た僕は、進学塾に通い、中学受験をすることになった。
僕としては「特別中学受験をしたい」とは思わなかったし、中学受験をしたと言って何が得られるかも分からず、やる気の出るものでは無かった。
でも、親の薦めだったから進学塾に入り中学受験することにした。
この先が辛かった。
まず勉強のレベルである。
いきなりレベルがグンと上がり、最初は頭が全くついていかなかった。
しかも学校のテストとは訳が違い、難易度も高く点数もとれない。
辛かった。「完璧な自分」がどんどん崩れ去っていった。
勉強しようにも好きなことでもないし、意味も分からない。やる気も起きなかった。
なのに親には「結構点数とれたよ」と嘘をついて、取り繕っていた。
高いお金も払ってもらっていたのに。
平日と土曜日は小学校終わりに塾、最終的には日曜日は「特訓」という名前で、少し離れた塾で一日中勉強をしていた。
その時間は本当に憂鬱だった。
成績が上がらないこと、僕のモチベーションの低さに両親も不機嫌なことが多かった。
父にも何度か怒りに任せて蹴られたりどつかれたりしたことがある。
あれは一生忘れない。
そんなこともあり、試験に対する嫌悪感は、その後の人生でもずっと続くことになった。
結局、中学受験は失敗だった。
両親は悲しんでいた。
僕は「自分はダメなやつ」と思い込む一方で、「やっと終わった。解放される」とホッとした感覚もあった。
自分を受け容れてくれた祖父
そんな良くない思い出ばかりの小学校時代ではあったが、救いの時間もあった。
長野県の開田高原という場所に住む、母方の祖父である。
祖父は完璧でもない自分を「そのまんま」受け容れてくれた。
宿題をやっていなくても、成績が良くない自分でも関係無かった。
当たり前のようにどんな自分でも等しく可愛がってくれたのだ。
そんな祖父は僕の誇りでもあった。
林業に従事、背が高く丈夫な体格をしており豆だらけで大きい手をした人間だった。
身体だけじゃなくて人間も大きく、頼まれたことは嫌な顔ひとつせずやり、村じゅうの人間から慕われている人だった。
人の中心にいるわけではないが、人の輪の端から皆が楽しんでいるのをニコニコ見ているような、そんな人だった。
決して裕福では無かったはずなのに、僕が遊びに行くとミニカーを買ってくれて、父には「帰る時に美味しいものでも食べて帰り。」とお金を渡していたのを覚えている。
そんな祖父の笑顔が好きだった。ただ大好きだった。
一緒に中日ドラゴンズ戦のラジオを聞いたり、一緒に温泉に行って背中を流したり、肩や足裏のマッサージをしたら喜んでくれてたなぁ。
当時は、祖父の細かい事情は知らなかったが、子どもの直感で「祖父のような人間になりたい」と思っていたのはハッキリ覚えているし、今になってその憧れは更に強くなっている。
まとめ
さて、小学校時代を振り返ってみました。
小学校時代は、僕がライフコーチになるきっかけを生む「心の癖」が形成された時代でした。
「完璧な自分」を絶対とし、それ以外の自分を抑え込んでしまうのです。
「完璧な自分」になって得られるのは、親からの容認や周りからの称賛。
今後も、「そのまんまのじぶん」と「完璧な自分」の間で揺れ動いていくことになります
あなたは、どんな自分と葛藤してきましたか?
振り返ってみると、今の自分を縛っているものが分かるかもしれません。
最後まで読んで頂いて有難うございました。
私も同様に、おじいちゃんが救ってくれた人生まっしぐらで60年生きてきました。
このくらい生きてると、
人には、その人のエネルギー量の大きさや質に見合った壁がやってきて、ほーれ、これ越えてみな、越えられたらもっと高いとこから見えるようになるでー笑、と、微笑まれてる感触があります。
そのもっと高いとこからの景色を見たくて、
まぁ〜今日もやろうぜ、
って思える日々。
まぁ〜今日もやってみようぜ!
応援します。
Kiyomiさん!
コメント有難うございます!
返信が遅くなってすみません。
なるほど、「その人に見合う壁がやってくる」。
その話自体は聞いたことがありましたが、自分の場合は「試されてる感覚」でした。
どっちかと言えば「試練」のような冷たいイメージ。
Kiyomiさんの場合は、微笑まれてるんですね!あったかい。
そう考えると「今しんどいけど少し頑張ったら良い事あるかもね」ってほんのちょっとの自分への優しさが生まれるような気がします。
あったかい気づきを有難うございます。
頑張ってみます!